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政男兵記―私の前世は日本兵―

日本兵だった前世の記憶を掘り起こし、かつての人生を思い出していくブログ。

政男さんは歩兵第三十三聨隊に所属していた可能性が高い?

 政男さんは、三重県の津にあった歩兵第三十三聨隊(戦時の呼称)に所属していたのか?
 と推測する根拠は、政男さんの徴兵➡満期除隊➡召集を受けた時期と、歩兵第三十三聨隊の1936―1939年までの戦歴年表が妙に一致するからです。
 
 政男さんが1939年に25歳で戦死したという現在の有力説からして、
 彼は
 ・1934年に満20才で徴兵。
 ・1936年まで兵役(初年兵教育)を務め、満期除隊。
 ・1937年の支那事変で召集された➡歩兵第三十三聨隊に所属する?➡中国の天津へ向かった?
 という憶測が浮上します。
 
 そして、前の記事で載せた歩兵第三十三聨隊の戦歴年表(Wikipediaに載ってる奴ですが……)です。
 ・1936年(昭和11年)帰還。
 ・1937年(昭和12年)9月、天津に到着し、その後石家荘、常熟、無錫などで戦ったのち南京攻略戦に参加。
 ・1938年(昭和13年) - 徐州会戦や武漢作戦に参加。
 ・1939年(昭和14年)襄東会戦に参加。6月 - 帰還。
 
 歩兵第三十三聨隊は1936年に帰還した後、1937年の支那事変で再び中国へ向かったということでしょう。
 もし歩兵第三十三聨隊に政男さんが所属していたならば、彼は恐らく1939年(昭和14年)の襄東会戦にて戦死したと思われます。
 
 そしてもう1つ、政男さんが歩兵第三十三聨隊に所属していたのでは? と思える根拠が。これは政男さんの記憶と歴代的事実を照らし合わせたものなので確証は全くないのですが、書かせてください。
 
 歩兵第三十三聨隊の歴代師団長に、中島今朝吾という人がいました。中島師団長は、12年8月2日から13年7月15日まで第十六師団を指揮していました。政男さんの召集時前期に当たりますね。
 この中島師団長とやら、随分な極悪人のようで?
 
『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』(松岡環(編著)、社会評論社)という本には、中島師団長は残忍な性格だったという証言が載せられています。この本、Amazonなどでは賛否両論真っ二つですが……。
 直接本から引用するべきでしょうが、生憎図書館になかったので『虐殺命令』➡http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/gyakusatu.htmlというサイトから証言を孫引きさせて頂きました。
 
『第16師団歩兵第33連隊 第3機関銃中隊(1915年生まれ)
 中島師団長という人は剛胆な人で、「支那の家を全部焼いてしまえ」と言いましてな。白茆口へ上陸した時です。「ここは抗日の一番ひどいとこやから各部落の家は全部焼け」とも言いました。私も上陸してから露営して、すぐに家を焼きました。仲間内で伝わって来ましてな。「師団長が言うたんで、やってしまえ」と。まぁでも後から来る兵隊は泊まるとこがなくなるので、焼くのを中止してくれとなってね、無錫からは焼くのはやめました。
 中島師団長はそういう人ですので、支那兵はみんな殺してしまえと、二十聯隊か三十八聯隊か九聯隊か知らんけど、そういうことをやりましたでしょうな。
『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P343-344』

『第16師団歩兵第33連隊 第3大隊(1913年11月生まれ)
 紫金山を二晩ぐらいして、十三日の払暁、北から下りて。私ら自身は南京城内で駐屯しとらんが。城外の防衛やった。下関という記憶はある。その日のうちに下関へ警備みたいな状態でいった。
 城内の記憶はないということもないな。城内のどの辺りだったかは分からん。それは二日ほどで、十五日ぐらいに下関へいった。
 その時起きたのが、やかましゅう言われる南京大虐殺というやつやな。あれは、十六師団、中島師団が関係しておるというかちになっておるな。これは大事な問題や。
『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P145-146』
 
 証言している元日本兵たちも政男さんと年が近く(政男さんが1939年に25歳で戦死なら1914年生まれになる)、上記二名は三重県津の歩兵第三十三聨隊に所属している方々です。
 二つの証言から中島師団長は、中国の部落を焼けと命令したり、日本軍史上最悪の事件の元凶なる者?らしいですね。
 
 実は、政男さんの記憶にも不吉なものがいくつかあるんですよね。
 
支那での恐ろしい光景がまた見えた』
 http://tenseinosoldier.hatenablog.com/entry/2017/04/05/204101という記事にも書きましたが、道端で日本兵二人に銃口を突き付けられ泣き叫ぶ中国人の女性や、農村?の草原にて日本兵のそばで怯えるようにうずくまる女性のビジョンが見えたことがあります。
 
 さらに、以前自分のにわかさが恥ずかしいあまりに消してしまった記事に載せていた画像なんですが、再度載せますね。

f:id:tenseinosoldier:20170415235711j:plain
 
 駐車場か広間かわかりませんが、壁に市民たちが貼り付けにされ、日本兵たちが並んで彼らに銃を構えている光景が浮かび、絵に書いてみたものです。市民は皆泣き顔でした。老若男女ごっちゃでしたが、服装とか細かく見えなかったので雑な形の人間にしてしまいましたが。
 しかし、この光景には政男さんの感情が伴っていなかったので、本当に前世の記憶かどうかわかりません。とりあえず、載せておきますね。
 
 また、『日中戦争で俺は支那人をたくさん殺した』➡http://tenseinosoldier.hatenablog.com/entry/2017/03/26/093208の記事では、五時間以上も政男さんの狂気にとりつかれて眠れなかった恐怖体験を書きました。あれは、かなり恐ろしかったです。でも中島師団長に関わる記述を書いている今、あの狂気も中島師団(?)を臭わせる何かがあると思えてきました。
 政男さんの心の声は「日中戦争で俺は支那人をたくさん殺した」と言っていますが、なぜ「俺ら(部隊)」ではなく「俺は」なのか。支那人=敵兵の意味で、単独でたくさん殺したというならば政男さんは有能スナイパーだったのか? なんていう話になっちゃいますが、はたしてどうなのだろう。
 実は、政男さんの言っていた支那人は市民を指していたのではないだろうか。無防備で無抵抗な市民なら、敵兵よりも簡単に殺せますしね。もし支那人=市民をたくさん殺した。という意味ならば、政男さんは虐殺に加担したってこと? うう……きな臭すぎる。
 
 もし政男さんが中島師団長現役時の第十六師団歩兵第三十三聨隊に所属していたなら、彼の記憶と中島師団長の蛮行命令、なんか妙に辻褄が合うような? そんな気がしてなりません。考えすぎかなぁ?
 
 以上の「政男さんの兵役時期と年表の一致」と「中島師団と政男さんの記憶の怖い辻褄」という二つの考察から、政男さんは第十六師団歩兵第三十三聨隊に所属していた可能性がとても高くなりました。
 
 しかし……仮に政男さんが歩兵第三十三聨隊にいたとしても、どこに所属していたのやら?
『歩兵第三十三聨隊史』という1930年代に書かれた本を国立国会図書館の検索機で見つけ、所蔵場所をあちこち検索したのですが、どこの図書館にもない! この本なら、歩兵第三十三聨隊の部隊編制、果てには兵隊たちの名簿も載っているかもしれないと思ったのに! チキショー!
 本を読めば、その歩兵第三十三聨隊の中に政男さんが所属していたらしき『山内小隊長殿?率いる山内部隊』があったことが判明したかもしれないのに……嗚呼、歯がゆい。
 
 というわけで、上記の本を現在血なまこで探しております。あと、歩兵第三十三聨隊の戦友会『桜会』が出版している本やらも。
 嗚呼……歩兵第三十三聨隊の細かい部隊編制がわからないんじゃ、先に進めないよう。お助け……。



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